Kota Isao Retrospective
上映作品解説
居田伊佐雄さんによる作品解説
Aプロ:
Far from the explosive form of fruit (1972/8mm/sound/8min)
雪解け水のせせらぎが聴こえる野原で陽光を浴びながら、自分が感覚であり音と光景に取り囲まれているのだと、生々しく感じたことがありました。その感じを表現したいと思いました。
右旋回・左旋回・下から上に・変化して行くカットの長さ、こうした要素によって私の周囲に広がっていた空間を形作るような編集をしようと計画しました。
8ミリフィルムをテープで接合して編集するのですが、編集箇所が多かったうえにカットする位置の決定で試行錯誤した結果、接合に使うテープ代がフィルム代と現像料を上回りました。
ASCENSION (1972/8mm/silent/4min)
泡が破裂する瞬間に他の映像を見るとどんな感じがするのだろうか。泡が破裂する直前のコマに他の映像を接合するのと、破裂した直後のコマに他の映像を接合するのとでは、何か決定的な違いがあるのだろうか、ということが気になったので、その瞬間を繰り返し見るために作ってみた作品です。
ひとコマ残すか削るかの違いを実感したいということかも知れません。小さな写真が連なっている8ミリフィルムを手にして、これで何ができるのか自分なりに手探りしていました。
マリリン・マグダリーン (1972/8mm/sound/9min)
時間も場所も違う写真が沢山あり、どの写真にも同一人物が写っている場合、それらの写真をコマ撮りすれば同一人物が動いているアニメーションになる。強引に動かしてしまうのも楽しみだ。さらに写真毎の要素の違いの大きさが何か激しいものを生み出すに違いない。そのような期待を抱かせる一人の人物の沢山の写真があることに気が付いたのが製作の切っ掛けでした。
コマ撮り・再撮影・再撮影の再撮影・薬品による変色とエマルジョンの剥離を行いました。
1・18 (1973/8mm/sound/19min)
飯を食ったり8ミリフィルムを編集したりする、ちょっと貧しいアパート暮らしのある日です。米のとぎ方が酷いと批判を浴びましたが、それはともかく、動作毎に撮影した沢山のカットを動きの切れ目なく編集し、ある日のある時間帯を視線の動きで再現してみました。
NEBULA (1973/8mm/silent/8min)
映写機のレンズの光を氷の板を隔てて撮影しました。その8ミリフィルムを、漂白剤を薄めた液体に漬け、かき混ぜて傷を付けました。
その後乾いて貼り付いたフィルム同士をパリパリと剥がしました。パーフォレーションの形に剥がれた乳剤の痕跡がうごめきます。
THE CRAMPED AREA (1973/8mm/sound/23min)
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を映画でやってみようとしたのが前半です。全体としては足元から太陽に至る視野の、横方向に回転しながらの上昇なのですが、その前半部分ということです。
連続した映像の後半でスクリーンの前にギターを持った男が登場し津軽三味線風の即興演奏をします。自然音が音楽に切り替わることで表現の雰囲気が急変するという、良くも悪くも変な映画です。
Bプロ:
窓から (1974/8mm/silent/10min)
カメラを左右に動かして撮影した映像は画面の中で左右に動きます。その画面をカメラを左右に動かして再撮影しました。映像の動きとカメラの動きが同方向のときには動きがなくなり、逆方向のときには動きが加速されます。
猫の檻 (1974/16mm/silent/3min)
多摩動物公園でチーターが歩き回る様子を撮影しました。その映像を映写し、スクリーン上のチーターの動きをカメラで追いかけました。チーターはスクリーンという檻のなかにいるので、追いかけるとスクリーンの外の暗闇がフレームに入ってきます。
オランダ人の写真(8ミリ版) (1974/8mm/silent/6min)
1976年に製作した版が完成形なのですが、それは1974年に製作し上映したこの版の入れ子構造を増やして作り直したものです。見て欲しいのは完成形のほうですが、入れ子の少ないこの版も残しておきました。両方あることが入れ子構造の性質を主張しているように思えたからです。
わがのちは眠りよ来れ (1974/8mm/silent/26min)
写真の連続が映画であることを見るために、動きに途切れのない一本の映画のなかで様々な試みを行いました。この作品を中断して作った『オランダ人の写真(8ミリ版)』から1976年の『感情船』までの作業は、この作品が出発点になっています。
微風 (1974/8mm/silent/16min)
当時住んでいたアパートの部屋でのひと時です。ときどき窓から風が入ってきます。8ミリフィルムで撮影した映像を停止映写し、ひとコマずつ再撮影しました。ひとコマ毎にカメラの向きやズームを変更したので、人の動きなどは連続していながら、画面はひとコマ毎にトリミングされています。
杖 (1974/8mm/silent/20min)
浦賀で撮影しました。8ミリカメラを載せた三脚を担いで歩くので背後からの自撮りです。常に三脚が写っていますからフレームの存在感が付き纏います。
そのフィルムを映写し、ひとコマ毎にズームの倍率を変えて再撮影しました。画面全体と中心部を、ひとコマずつ交互に見ることになります。
後半は、画面の中で傾いている風景を、水平に戻すようにスクリーンを再撮影し、風景は不動、動いているのはファインダーであることを表現しました。
Cプロ:
気流 (1975/16mm/silent/14min)
連続して撮影した映画フィルムはひとコマ毎のアクションカッティングの連続です。コマと次のコマの映像に動きの連続があるからです。一方、ひとコマは一枚の写真ですので、ひとコマずつ映像をトリミングしたり拡大縮小したりすることができます。例えば普通にズームする過程をA→B→C→Dとしたら、ひとコマ毎に拡大縮小することでC→A→D→Bとすることができます。これは映画が写真の連続である以上不自然なことではありません。ひとコマずつ拡大縮小された映像のなかで被写体の動きが連続します。
踏切(1975/8mm/silent/20min)
人間の眼の動きは、鳩や鶏が首を振る仕草に似ています。そのせわしなさを映像ににしてみたいと思いました。
8ミリカメラを手に持って頭の上に載せ、道を歩きながら撮影しました。そのフィルムをスクリーンに停止映写し、視線の動きを取り出すように画面を切り取り、ひとコマずつ再撮影しました。まばたき用のマスクも作り、再撮影で使いました。
オランダ人の写真 (1976/16mm/silent/7min)
映画は静止した写真の連続ですので、一枚の写真は映画のひとコマです。机とその上に置かれた一枚の写真を想像します。想像する私の脳内を写真に撮ったとすれば、机に置かれた写真を撮った写真が出来上がることでしょう。そのように想像する私の脳内を写真に撮ったとすれば、机に置かれた写真を撮った写真を撮った写真ができあがります。そのように考えて1974年に8ミリフィルムで『オランダ人の写真』を製作したのですが、入れ子構造はいくらでも増やせるので1976年に16ミリフィルムで作り直しました。
感情船 (1976/16mm/silent/33min)
昭和51年の山下公園と横浜観光船です。実写の部分では、移動するマットによって風景とファインダーの関係を表し、写真を使った部分では、映像とフレームの関係を、様々なパターンを提示することで探りました。
Dプロ:
プレパラート (1977/16mm/silent/12min)
分度器を使った撮影装置に写真をセットし、角度を変えながら写真を入れ替えて撮影しました。
上方向に圧縮するワイプが繰り返されます。一回ワイプする度に掌の上で回転する写真が映し出されます。ワイプする写真の中では後ろ姿の男が歩いています。男はしゃがみ込み、回転しながら地面を移動してきた写真を掌に乗せます。その写真にカメラが寄っていく過程で二つの回転する写真が同じ写真になります。
カメラが寄っていった方の写真が画面一杯になると、写真の中の後ろ姿の男が歩きはじめるので振り出しに戻ります。
鉱物学者 (1977/8mm/silent/11min)
8ミリ映画は毎秒18コマか24コマで撮影され、同じ速度で映写されます。8ミリ映写機の中にはスローモーション映写ができるものもあります。映写速度を落とせば落とすほど映像が間欠的に映し出され、スライド写真を順繰りに見ている状態が明瞭になってきます。
そこでスローモーション映写で普通の動きに近くなる撮影をしてみることにしました。カメラのレリーズをガシャガシャと指がつるまで押しまくって撮影しました。
写真を次々に見るのが映画の動きという考えですので、撮影速度は指次第、映写速度も大雑把です。
プロローグ・エピローグ (1977/8mm/silent/5min)
1977年の個展で、始まりに『プロローグ』を、終わりに『エピローグ』を上映してみたくて作りました。『プレパラート』の素材写真を使っています。
子午線通過 (1977/16mm/sound/5min)
横浜の大桟橋で撮影したフィルムをマットに映写して再撮影しました。風景が部分的に見えたり見えなかったりするようにマットを取り替え、その状態がランダムに起こるよう映写機のレンズを覆ったり開いたりしながら撮影しました。
フィルムが終端まで行くと巻き戻し、マットを取り替えて撮影する、という作業を繰り返しました。マット5枚とマスクの6重露光です。
見えたり見えなかったりする不明瞭な画面の中を、遠近感をなぞるように明瞭な形が通過して行くといったイメージを抱いて作りました。
ハンマー (1977/16mm/sound/5min)
スクリーンの内側はフレームによって区切られた虚構の空間であり、スクリーンは虚構の空間の表面です。その表面に虚構の空間の内側から様々なアプローチをしてみたいと考えて製作しました。
表面を横にスライドさせるとか、掴んで内側に取り込むとか、逆に内側のものを表面に一致させるとか。技法としては、紙焼きの連続写真を切り張りして虚構の空間の表面に相当する連続写真を作成し、それらをコマ撮りしました。
北半球 (1978/8mm/sound/9min)
天地が逆さまの映画を作ってみたいと思いました。この映像は意味が無いのだ、と主張している映像で映画を構成してみたいと思いました。
人形を使ったカットがありますが、人形は『鉱物学者』の撮影で訪れた河原に漂着していたものです。撮影に使えるかもしれないと思って拾っておきました。このカットについて中村雅信さんが『記念写真』への私からの回答だと思ったらしく、そのように私に問いかけましたが、その意味すら無かったので返答に困りました。
フィンガー (1978/16mm/silent/3min)
ほとんど動かない実写(人と鋏)と、よく動く連続写真(指)を合成しました。
赤信号 (1978/16mm/sound/9min)
さまざまな気分を表すカットで組み立てました。はさみ同士の切り合いとか、ルーペを覗いた目のまばたきとか、写真を交互に、または続けて見る単純な動きばかりです。交通信号の赤・黄・緑のようなものだと思っています。
Eプロ:
満月 (1979/16mm/silent/13min)
写真の一部を長方形に切り抜いて、カメラのファインダーに相当する覗き窓にしました。切り抜いた写真は、覗き窓を指さす手が写った連続写真です。部屋の一角を写した写真に覗き窓の連続写真を重ねる、重ねないを繰り返し、全体の中で、部分を見る窓が移動する映像を作ってみました。
コンパス (1980/16mm/silent/13min)
電球用のフィルムを昼光で撮影すると青く写ります。それを補正するために琥珀色のフィルターをレンズに取り付けるのですが、そのフィルターをレンズから外し、カメラから遠ざけていきます。二つの異なる色温度の領域が写ります。
フィルターをぐるぐる回しながら連続する写真を撮りました。シャッター速度を遅くするにつれてフィルター内側の領域が変形していきます。
満潮 (1981/16mm/sound/7min)
映写機のレンズから光が出てスクリーンに到達し映像が映し出されます。映写機とスクリーンは光の筒で繋がっています。光の筒を白い板で遮るとそこに映像が映し出されますが、それは光の筒の断面です。光の筒は金太郎飴のようなもので、どこで遮っても同じ映像が映し出されます。
光の筒の断面を眺めるような、映写機から射出された映像がスクリーンまで漂っていく様子を眺めるような、そのような映画を作ってみたいと思いました。
エコー (1982/16mm/sound/9min)
映写機とスクリーンの間に指を差し出し、映し出されているものに指の影で触れながら撮影しました。影絵遊びのような撮影です。元々フィルムに写っている影も、映写機の前に差し出した指や手の影も、どちらも撮影された影になるので見分けにくくなります。ですが、なんとなく見分けながら見てしまいます。元々無い影が混じることで、微妙に虚構であることの味付けが加わります。映像である水や蛙の感触、光と影と粒子でできた自然の感触、こういった感触を味わう作品にしたいと思いました。
回路計 (1983/8mm/sound/16min)
高感度の8ミリフィルムで撮った映画は粒子が荒く、粒子がもやもやと動く様子をスクリーンの上に見ることができます。油絵には油絵具の感触があり、水彩画には水彩絵具と紙の感触があります。映画にはフィルムの感触があり、フィルムの面積が小さくなるほど相対的に粒子が大きく映し出されるので、フィルムの感触が際立ちます。
フィルムのなかの飛び立った飛行機は、遠ざかるにつれてどんどん小さくなり、粒子よりも小さくなって、粒子でできた青空に埋もれて行くのです。
影踏み (1983/16mm/sound/14min)
小高い山の頂で鳥の囀りを聞き、上空を通過する飛行機の音に空の高さを感じながら、影踏み遊びをするように撮影しました。撮影して編集することを3回に分けて行いました。1回目の編集後の映像から、それに続く映像を発想して2回目の撮影を行い、2回目の編集結果から3回目の映像を発想して撮影しました。
完成させるのに1年かかりましたが、俳句を詠むのに苦労しているような1年間でした。音は現地で生録音した自然音を編集なしで使いましたが、なぜか編集後の映像に計算したように合っていくのが不思議でした。
Fプロ:
地球の石 (1986/8mm/sound/37min)
何処かの野原で宇宙人がうろつきながら自然を観察しているような映画を作りたいと思いました。昆虫に感心したり、木の葉に空いた虫食い穴に注目したりしているうちに日が暮れ夜が明け、また日が暮れて夜が明ける。
地球の上には見慣れたいろいろなものがあるけれど、雨に濡れていたり、懐中電灯で照らし出したりすると、月の石みたいに珍しく感じるではないですか。
撮影はダブルランスーパー8です。16mmフィルムと同じ幅のフィルムですが、現像後に半分に切断されてスーパー8フィルムになります。ダブル8ではありません。
星の巣 (1987/16mm/silent/15min)
夜空を見上げたときに地球という星のうえにいると実感することがあります。日中は植物が太陽と交信しています。蜘蛛が空を昇っています。
身近な自然の映像を厳密に編集してみたいと思いました。パズルを解くように、撮影しては編集し直すことを繰り返しました。
大きな石小さな夜 (1991/8mm/silent/13min)
水の表面張力、石に詰め込まれている夜と長い時間のイメージ、垂直方向の空間移動、距離を超越するためのアクションカッティング、こうした好みのモチーフや技法を使い、盆栽とか趣味の園芸みたいにこつこつ時間をかけて作りました。
少し作っては作り直すことを繰り返し、迷いを拭いきれない部分があったのですが1年後に発表しました。その部分を金井勝さんが見抜きました。指摘されて閃き、その部分を作り直して最終的な形になりました。楽しんで作ったせいか愛着のある作品です。
©S.I.G.,Inc/Art Saloon/Underground Cinema Festival